蒙古襲来の失敗は、日本では一般的に「神風に助けられた」と言われているが、記事はこれを否定し、「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」と主張した。元軍は、準備を万全にして大軍で攻めたので、2度とも成功しておかしくなかったと記事は伝えている。
1度目の文永の役では、総勢3万2000人の兵を率いて壱岐を難なく攻略し、博多湾へ上陸するところまでは「元のシナリオどおり」だったと主張した。戦争に熟練していて火薬兵器もあり、戦闘力・士気ともに日本より高かった元が破れるはずはなかったが、暴風雨に遭いやむなく撤退したと伝えた。
2度目の弘安の役では、雪辱を晴らすべく元はじっくり戦略を練って臨んだという。記事は、「九州には大型台風が多い」ことを学んだ元は、弘安の役では台風の時期を避けて攻めたと紹介した。しかし、日本に到着するまで思いがけず時間がかかり、やはり暴風雨に襲われて成功しなかったと伝えた。
日本人が暴風雨を「神風」とありがたがったのも無理はないが、記事はやはり「神風などというものは子虚烏有(しきょうゆう)だ」と主張した。「子虚」は事実とは異なること、「烏有」は何も存在しないという意味で、でたらめという意味になる。実際、文永の役では台風が直接の撤退理由ではないとの説もあるが、弘安の役では確かに台風で大損害を被っている。記事は「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」と主張しているが、その気象条件をもたらした「運」まで含めて、日本人は「神風」と呼んでいるのではないだろうか。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)
http://news.searchina.net/id/1699867?page=1
★1 2021/06/12(土) 11:44:56.76
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1623465896/
元スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1623474001/-100
元軍はベトナムでも負けてるからな。
確か三回も。
海とか河川を渡るのが苦手だよね。
> 海とか河川を渡るのが苦手だよね。
騎馬民族って、たいてい苦手
「神風」がなくても勝てた? 元寇でモンゴル軍を本当に苦しめたものとは?
https://newsphere.jp/culture/20170627-4/2/
「神風」で退却を余儀なくされるまで、モンゴル軍の日本上陸を阻んだ要素は以下の3つである。
・海岸沿いに設置された防壁(石塁)
・日本という島国自体が難攻不落の要塞であった。
・モンゴル軍のほとんどが朝鮮人や中国人の寄せ集めた部隊だったので、
戦いのプロである武士の方が力だけで見ると圧倒的に上だった。
2度目の「弘安の役」の時の話だな。
1度目の「文永の役」の時には上陸されて橋頭堡を作られている。
「ゴーストオブツシマ」はこの時の話。
まぁ、その後鎌倉武士に叩き出された後に台風食らって沈んだのだが。
いやいや、元寇も馬鹿ではないから
台風の前に退却していた。
wikiによると
「元側の史料『高麗史』の記載によると、元軍は日本軍との戦闘で苦戦を強いられたため軍議により撤退を決定し、日本からの撤退途上で暴風雨に遭遇したとなっている」
らしいね。
要はガチで鎌倉武士に叩き出されたわけだ。
単純に鎌倉武士の強さと元軍の慣れない上陸戦のためとは思われます。
・・・んでなんも役に立たなかった貴族連中が恩賞にあずかろうと
「我々の祈祷で起こした神風が勝利に導いたのだ」と政治活動してたとか。
どうもそうらしいな。
「当時の日本国内では元寇を日本の神と異賊の争いと見る観念が共有されており、神社や寺による折伏・祈祷や歌詠みは日本の神の力を強める(天人相関思想)と信心されていた。そのため、元軍を撃退できた要因は折伏・祈祷による神力・神風であると神社等は宣伝し、幕府に対して恩賞を求めた。」
まぁ当時も戦前も戦後も、扱いは違えど「神風」は政治の産物というわけだw
独立門www
半島はそんな価値すら無かったからだろーがw
清史稿「朝鮮」読んどけハゲ
なんで沖に避難してんだよ
くそデカいロケット花火?
手りゅう弾だよ
弓に爆竹載せてたやつかと。
馬は音に敏感なので音でびっくりさせるわけです。
あとモンゴル軍が強いのは騎馬民族の機動力による優位性だから
海渡って来ても馬がいないから全く優位性がない
対中国戦で、黄河を渡ったことはあるから、その応用で何とかなると思ったんだろうね
wikiより
「 対馬侵攻 編集
5月21日、東路軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸。上陸した東路軍は日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死した」
対馬に上陸したものの撃退されたらしい。