76回目の終戦記念日を前に京都新聞社の取材に応じ、死と向き合った日々をあらためて証言した。
敵艦に体当たりしに行った仲間に思いをはせ、「日本はなんであんな無駄な戦争をしたのか。今でも悔しい」と涙ながらに語った。
■「拒否できない」終戦の年、特攻隊員に
千さんは同志社大2年だった1943年、20歳になったため上京区役所で徴兵検査を受け、海軍に入った。飛行予備学生に合格して土浦航空隊(茨城県)で士官になるための教育を受けた後、
徳島航空隊(徳島県)に配属。戦況の悪化で通常は1年半要する訓練は10カ月に短縮された。
45年3月、基地の搭乗員全員が整列する中、上官は「残念だが特別攻撃隊の編成が命じられた。今から1枚の紙を渡す。名前を書いて提出せよ」と告げた。
紙には熱望・希望・否の選択肢が記されていた。提出期限はその日の夕方。「死ぬの嫌やな」と言う仲間もいたが、千さんは「名前を書く以上、拒否できない」と熱望に二重丸を付けた。
否を選んだ搭乗員もいたかもしれないが、結果的に全員が特攻隊に編成された。
両翼に重さ250キログラムの模擬爆弾二つをつるし、高度1500メートルから敵艦を目掛けて突っ込む特別訓練が始まった。
特攻機「白菊」は練習機を改造したもので2人乗り。戦闘機と比べて速度が遅く、敵に発見されると撃墜されることから、出撃は深夜と決まっている。
訓練では機体の内側を黒い布で覆って真っ暗にし、計測器を頼りに離陸や旋回を繰り返した。
■「お母さーん、お母さーん」仲間の目にあふれる涙
訓練後、千さんは仲間の求めに応じ、携帯用茶道具と配給のようかんで即席の茶会を開くことがあった。
ある日、福岡県出身の京都大生だった戦友が「生きて帰ったら、おまえのところの茶室で飲ませてくれるか」と口にした。
敵艦への体当たりが任務である以上、生還の望みはない。千さんは「ああ俺たちは死ぬのだ。もうこの世とお別れだ」と感じた。
そのとき、1人が立ち上がり「お母さーん」と叫んだ。千さんの胸に「おふくろにもう一遍、頭をなでてもらいたい」という思いが去来した。
同世代の仲間も次々と立ち、古里の方角を向いて「お母さーん、お母さーん」と繰り返す。どの瞳も涙があふれていた。
「上官は国のために死ねと言うがそうじゃない。私たちは、愛するきょうだいや親が少しでも戦争から逃れられるなら、私たちが犠牲になってもいいじゃないかと考えていた」。
出征前に読んでいた文豪トルストイの「戦争と平和」や倉田百三の「出家とその弟子」も踏まえ、生と死について語り合ったこともあった。
■出撃せず「仲間に申し訳ない」
徳島白菊特攻隊は5月24日~6月25日の間、鹿児島県の前線基地から沖縄の近海へ5回出撃し、17~25歳の56人(京都府出身4人、滋賀県出身2人)が命を落とした。
本物の茶室で飲ませてほしいと言った京大生のように他の実戦部隊に転属し、特攻で犠牲となった仲間も少なくない。
千さんは死地に赴く仲間から「おい千よ、靖国で待っとるぞ」と言われ、「おう(俺も後から)行くぞ」と約束した。しかし、なぜか自分には待機命令がかかる。
上官に出撃させてほしいと頼んでも命令は変わらなかった。「大きなショック。うれしいことも何にもない」。松山航空隊(愛媛県)に転属となり、終戦を迎えた。「忸怩(じくじ)たる思いどころか、みんなに申し訳ない」と苦悩した。
元スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1629017713/-100
上級国民は当時からあったのだね。つうか、身分格差は今より露骨だろう。
司令官の源田實中佐が飛行長の志賀淑雄少佐に相談した時のやり取り
源田「うちに特攻に出せと言って来たよ」
志賀「誰が言いました?」
源田「……」
志賀「良いですよ、やりましょう。私が先頭で出ます。優秀な士官兵は全員出しましょう。若い予備士官は出しちゃいけません。司令、あなたは最後に出撃してください」
志賀「それと一つ、条件があります。」
源田「なんだ?」
志賀「その特攻に出せと言って来た参謀を連れて来てください。私の後ろに乗っけてやりますから。特攻がどういうものか最期に知って貰いましょう」
源田「…全くだ」
それ以降、343空に特攻の打診が来る事は二度と無かった。
志賀淑雄
海軍兵学校62期卒
空母『加賀』『隼鷹』の戦闘機隊長を歴任し数々の空戦を経験。
その後、海軍航空技術廠のテストパイロットとして『烈風』『紫電改』の開発に携わる。
第三四三海軍航空隊の飛行長として終戦を迎える。
戦後は航空自衛隊からの誘いを断りノーベル工業に入社、防弾チョッキや特殊警棒を開発。
1995年に同社社長となり1994年に会長を退任。
元零戦パイロットで構成される零戦搭乗員会の会長も務める。
2005年(平成17年)11月25日、死去。享年91。
以上
聞く意味ないじゃんwww
なぜ日本が満州作ったか、中国やロシアがどんな国か、あとになって気づく欧米諸国。
昔も今も全然足りないからな
外交自体が武器を持たない戦争なんだよね。
外交の最終手段が戦争だからな
そもそもハルノートハルノート言うが連盟脱退しなけりゃ変わってたんだよなー
気味悪く感じるほど、反撃の立ち上がりは早かった
奇襲攻撃成功だったのこれ
得たものって何も無いよな
歴史は繋がっているのに、よくそんな事が言えるね
朝鮮半島すら分割されたのに
韓国は九州全体をよこせと言ってきたけどな
もちろんアメリカに一蹴されたが
千島列島で抵抗していたのと満州から南下されたから
無かったら北海道はソ連のもんだった
今頃、日本は半分ロシア領と中華人民共和国
だったかもしれない
確か北海道から名古屋がロシア、
名古屋から沖縄がアメリカやイギリスなどが占領する予定だったかな。
俺たちなら無敵だアメリカなんてねじ伏せられると本気で思ってたのだろうか。
当初からアメリカ相手に勝てると思っていなかっただろ
1,2年ならば暴れる事は出来るという進言をしていた記録がある
で、もし勝っていたら今の平和あっただろうかネ。
あいつらが殴り合いで決めろよ
国民巻き込むな
しかもなんで日本だけ悪なんだ?
やっぱりアフガンの戦闘も無駄なのかな?
朝鮮が占領されたら日本は危い。
満州を確保しないと朝鮮は守りきれない。
それと、アメリカでの証言ね。
>さて、マッカーサーが昭和26年(1951)5月3日に、アメリカ上院軍事・外交合同委員会で語ったマッカーサー証言の中でも特筆すべきは次の部分であろう。
>
> “Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.”
> (したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです)
少なくとも80年代まで日本を外敵から畏怖で守ったと思うよ。 それほど怖れられた
俺は負けても戦った人々に感謝しているよ
送られる場所で天と地の差があったのはほんと酷かったって言ってた
う~ん